雑記

ゲームとか映画とか。

インターネットコンテンツの肥大化は何をもたらすのか?

難しいことを言われてもさっぱり?まあ説明しよう。

 

普及

(ここでは、インターネット上に確認できる様々なコンテンツを総称してとりあえずインターネットコンテンツと呼ぶ。)ここ数十年間で、インターネットコンテンツは爆発的な拡大を続けている。ひとえにパソコン、スマートフォンの普及が大きいのだが、これが何をもたらすのかは、既に諸君がご存知の通りであると思う。

 

誰もが発信者になることができる。 と言えば聞こえはいいが、それはこれまでの一般的なコンテンツとは比べものにならないほど手軽に発信できるものであった。極端に言えば、幼い子供から、年老いた老人まで、誰もが好きなことを、真偽も問われないまま発信(投稿)できてしまうということである。

 

これを友人同士の会話、せいぜい道で出会った人と、近所の人とちょっと会話する程度、と思っている方が大多数のようだが(実際それに近い側面もあるだろう)、その認識は実際とはかけ離れている。

 

誰もが数秒のうちに、全世界誰の目にも止まる可能性がある場所に書き込むということは、想像以上に危険なことである。それが良いものであることに越したことはないが、自分のことを知らない他人が、ましてや自分の国に関してよく知らない人物が、あなたの発信・投稿したコンテンツを閲覧するとどうなるか。

 

いわゆる内輪でわかる話でも、他人には全く異なる受け取られ方をする可能性があると言うことは言うまでもないが、「これは常識でしょ」は、ハッキリ言って全く通用しない。発信者側の思い通りに意図が伝わるとは、むしろ考えない方がいいまである。

 

これは発信者側についても同様のことが言える。常識的にこんな事を言うわけがない、こんなものを投稿するはずはないと思っても、そう投稿する人はいるものなのだ。それは頭の隅にでも入れておいて欲しい。それを糾弾するかどうかは別として。

 

これは何をもたらすか?

 

 

単純に言えば、終わりのない論争である。

 

お互いの主張が噛み合わないならまだいい方で、どちらもどちらか一方の「常識」の定規からも外れているので、そもそも論争にすらなっていない可能性も否定できない。会話のドッジボールですらなく、お互いが明後日の方向にボールを投げているのである。お話になっていない。

 

お互いが話さなければいい、といえば楽かもしれないが、それが難しいのもインターネットである。誰の目にも止まるということは、それだけ自分とは真逆の思想を持った人と巡り会う可能性も増えるということである。

 

じゃあどうすんねん?

そりゃ一言でいえばどうしようもない。個人がどうこうできる問題ではそもそもないと思われる。

 

問題なのは、スマートフォンなどの端末が急速に普及しすぎている現状である。誰もが発信できることはいいことでもあるし、それを制限するべきと述べる気もないが、それをモデレーション注釈)する労力もまた途方もないということである。それについては、この記事が詳しい→インターネット上のコンテンツを監視・削除するモデレーターは「最悪の仕事」 - GIGAZINE

 

SNSで私企業が検閲紛いのモデレーションをすることは表現の自由を損なう、という意見を一定数耳にするが、表現のみならず、自由には責任がつきまとうのである。それを抜きにして自由を叫んではいけない。そもそも、SNSは公共サービスではなく、一企業が運営するWebサービスでしかないのである。その公平性は絶対ではない。誰しもに等しい定規は存在しない。

 

個人でできることは少ないが、少なくとも、このようなことは知っておいてほしいなあと思う次第である。二ヶ月ぐらい熟成させた駄文でした。